[掲示板: 〈過去ログ〉SSS タドキストの広場 -- 最新メッセージID: 14976 // 時刻: 2024/11/1(19:19)]
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お名前: れな
投稿日: 2004/3/21(19:18)
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rockmanさん、タドキストの皆さま、こんばんは。れなです。 まだ潜ってますが、ちょっと(?)だけ。 なんだか、rockmanさんの提示される疑問は、お答えしてみたいような気持ちになる ものが多くて(笑)。なぜでしょう? 今回のお話は個人的には、楽しめているなら「ラッキー!」って思ってそのまま 読んでるのが幸せかと思うのですが、理論化した方がいいですか? 「ううん、しなくていいよー」と思われる方はこの先は読まないでくださいねー。 でもって、これからお話しすることは私の個人的な経験から出た自分なりの 結論です。こういうのもひとそれぞれだと思っていますので、まあ、「こういう人も いるのね」くらいのお気持ちで読んでいただけるとありがたいなー、と 思います(笑)。では、本題。 〉多読を始めて7ヶ月になりますが・・・ずっと感じていた素朴な疑問があります。 〉それは・・「なんで英語の本だと、読めるんだろうか?」ということです。 〉もともと読書って嫌いです。ここ20年に読んだ本なんて、片手で数えられます。 〉でも英語の本だと、自発的に読むんですよね。面白くて、楽しくて、ついつい手が 〉でちゃうんですよね。面白くて、面白くて、(昨日終った)「白い巨塔」も 〉うっかり見逃してしまったり・・・。なんでだろう?? ええと、私はもともと読書が大好きで、洋書を読めるようになったのもその延長線上に あるって自分でもわかっていて、だからrockmanさんとはずいぶん感じが違うと 思うのですが、洋書を読み始めて、ある程度無理なく読めるようになってから長い間、 「英語で読む方が精神的に楽だし楽しい」と思っていた時期がありました。 それで、どうしてなのか何度か考えて一応自分なりの結論に達していますので、 そのことをお話ししますー。ずれてたらごめんなさい。 ちなみに、今もそういう傾向はありますが、昔ほどではありません。これも、 これからお話しすることの根拠の一つです。 私は通勤読書の人です。通勤電車の中では常に本を読み、読み終わってしまいそうな本を 持っているときには次の本をカバンに入れずには出られない重症の活字中毒者。 これは、和書だけの時代から変わりません。今は大抵、PBと文庫を1冊ずつ カバンに入れていますね(笑)。その時の気分と体調で読み分けてます。 だから、最初に「英語で読む方が気が楽」であることに気づいたのは、 「和書の方が電車に酔いやすい」という事実からでした。 ある日、持ってた洋書があんまり難しかった(笑)ので文庫本に切り替えた私は、 即座に電車に酔いました。 べつにぐちゃぐちゃのスプラッターとかを読んでいた訳ではなくて、以前からよく 読んでいた、日本のミステリ作家の新刊だったんですが。 で、その日は「体調が悪かったのかも」と思っていたんですが、その後も何度も そういうことが(泣)。作家を変えても、ジャンルを変えても、明らかに日本語の方が 「酔う」。しかも、精神的にめげやすい。 何故? 最初に思ったのは、「英語で読んでるのは本当に好きな作家の読みたい本だから」な、 ってことでした。私はそういう人です(笑)。 でも、実際には、日本語で好きな作家の読みたい本を読んでいても、どうしてもその 内容が重たいときがあります。そして、英語だと明らかにそういうことが少ない。 もちろん、読むのが遅いとか、わからない部分があるとか、別の負荷はかかるんです けれど、精神的には英語の方がずっとすっきりしています。 なので、次に思ったのは「英語の方が思考形態がクリアだから」ということでした。 まあ、これはある種の偏見ですが(笑)。 日本のどろどろした情念みたいなものって、あんまり英語だと感じられませんよね。 持って回った言い方とかも少ない、というか「あってもわからない」(爆)。 でも、やっぱりこれだけでは何かが違うような気がします。 集中力の問題かな、とも思いました。英語で読むのは日本語で読むよりずっと 強い集中が必要で、他のことは何も考えられません。だから逆にすっきりするのかも、 とか。そして、そんなことを考えているうちに、新たな事実に気がつきました。 「英語の方が泣ける」 私は読書に関しては古狸なので、あんまり涙って出ない方でした。でも、英語で読んで るといとも簡単に涙が出てきます。電車の中では本当に危険です。どうも、英語で読むと 感情回路直結、って感じがするんですよね。 ううーん。 はい。ここまでが前置きでした。長いですね。すみません(汗)。 そうやって、色々考えるうちに私がたどりついた結論は、 「私の中の英語はまだ背負ってるものが少ないから」 ということでした。 私は英語読みとしてはまだまだ経験が浅いです。あ、ここで突っ込まないでくださいー(笑)。 だって、日本語は、とにかくずっとずっと読んできたし、日常的にも常に使っているわけ です。それで考えているし、話しています。そのことに較べれば、英語の日々はまだ 学齢以前。知っている言葉も少ないし、意味の蓄積もずっとずっと少ないのです。 日常的に必要なわけでもないので、実生活にきちんとつながってるとも言えません。 だから、英語で読むとき、私がそこに書かれた言葉や文章から受けるイメージは、 あくまでもその文章の中に存在する何かからのイメージであって、これまでの自分の知識 や経験とリンクする別の何かにはなかなかつながっていかないのではないかと思います。 日本語の場合には、ひとつの言葉や、文章から、たとえ表層化しないとしても とてもたくさんのイメージを喚起させられていて、それをどこかで統御して読んでいる けれど、英語の場合には統御するまでもなく意味はひとつ(とか、わからない、とか) であることが多い。英語で読むときは、その言葉はあくまでその物語の中の意味だけを持ち、 それ以外にはつながらない。だから、ある意味で、とてもピュアな、その物語だけを読む 読み方が可能になるのかもしれません。これが感覚的な「楽しさ」にもつながるし、 精神的な「楽」にもつながるわけです。感情的にも、まっすぐに切り込むように読むことに なるので、動かされやすいのかもしれません。 これって、別の側面から見るととても怖い考えです。だから、語らない方がいいのかなって 思ったりしていました。 ただ、ここでお断りしておきたいのは、これはあくまでも「読んでいる時点(もしくは 読み方)」の状況であり、内容の理解とか、行間を読むとかそういった読書姿勢(?)の 問題とは別物だということです。納得力はまた別のお話なんですね(笑)。 そんなふうには分けられないはずだ、と思う方も多いかと思いますが、とりあえず、 これが私の考えです。いえ、どなたの挑戦も受けて立ちたくはないです(爆)。 そして、始めの方でちょっとお話ししましたが、私のこの「英語の方が楽」という傾向は、 現在かなり解消(?)されつつあります。以前は、何を読んでもそれほど精神的圧迫を 受けることがなく、電車にも酔わずに楽しく読んでいたのですが、最近は「ああ、だめだ 今日はこの本は読めない」とか、「酔った」とか思うことが度々。 ええ、だんだん私の中の英語もしがらみを持ち始めたみたい(笑)です。もちろんまだ 日本語ほどではないですが、以前のような爽快感は減ってきました。 あ、でも、泣くのは泣いてますねー。感情回路への直通回線は健在、ということでしょうか。 ただ、英語で読むようになって本が好きになった方が、時間がたったらつらくなっちゃう かというと、それはないだろうと思います。だって、本って、本当に面白いじゃないですか。 私は精神的負担が大きいからと言って日本語の本を読むのが嫌になったりはしませんし (それはそれで楽しいものです)、英語に疲れればいつでも日本語の本を読みます。 読書することに慣れてしまえば、読むことは飲んだり食べたりするのと同じ生活の一部に なってしまうのだと思います。 rockmanさんも、英語で読んでいても自分の中の沢山の何かが呼応するところまで洋書を 読んでいけば、そしてその感覚に慣れてしまえば、逆に日本語の本も楽しめるようになるか もしれませんね。ここで「それには何百万語くらい読めば?」とか聞かれても困って しまいますが。 ではでは、楽しい読書を。
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