[掲示板: 〈過去ログ〉SSS タドキストの広場 -- 最新メッセージID: 14976 // 時刻: 2024/11/1(19:18)]
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10926. 人は、自分の知っている事の全てを知っている訳ではない
お名前: 道化師
投稿日: 2004/3/13(22:42)
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杏樹さん、こんばんは。道化師です。
せっかく、地雷を踏む覚悟でレス頂いたのに、お返事遅くなってすみません。
なんせ、肉体的ハンデキャップが、一日の打ち込み量を制限してるもんで。
(それで丁度良いって?)
〉ほほほほほ。
〉忙しくて議論してるヒマがないからさっさと終わらせようとして結論に飛んでしまいました。チクワさんが「予測」通りのレスをつけてくれてよかったですねえ。
はい。
杏樹さんが、遊んでくれそうないないなぁって思ってたところでしたので、
嬉しかったです。
〉これで終わらせておけばいいのですが、これ↓が気になったので…地雷を踏んだらどうしましょう。
おぉ、見事に仕掛けた地雷を探し当てていただきましたねぇ。嬉しい。
私、ペギーさんに「アナライザー」って命名されましたが、
実はアジテーターなんです。
だから、アジテーションの為に仕掛けた仕掛けに気付いて貰えないと、
つまんなぁーいんです。(笑)
今回は、久子さんにも気付いてもらえたみたいだし、めでたしめでたし。
(最近、マリコさんは、気付いてて、知らぬふりするからなぁ)
〉〉早いうちだけでなく、最後まで「読む」のに役立つのは「予測」だと思うんです。
〉〉言ってしまえば、私たちは知っている事しか読めないって事だと思います。
〉道化師さんは前にも「知っていることしか読めない」って言ってましたね。
あら、そんな前の発言まで覚えていてもらえて、光栄です。(ホントに)
〉それは道化師さんの読み方です。
男女の仲で、「あなたはあなた、私は私」な発想は幸せになれないですねぇ。
(って、違う話ですね。)
〉新しいことを知るために、知らない世界を知るために本を読むことがあるはずです。「予想外の展開!どんでん返しに次ぐどんでん返し!」みたいな本もありますし。
どんでん返しに付いて言えば、どんでん返しと私たちが許容できる結末は、
私たちが予測出来る範囲に収まると思うのです。
「巨人の星」で、星飛雄馬がマウンドに居て、9回裏二死満塁の場面で、
バッター花形、星が大リーグボールを投球した瞬間、隕石が後楽園球場に落下、
死者数万人が出たなんて結末は、予想外の結末ですが、
私たちには許容出来ないと思うんです。
許容出来ないって言い方がおかしければ、理解出来ないでもいいです。
〉むしろ「興味のないものは読めない」と言ったほうがいいのではないでしょうか?
〉興味があれば、本を通じて知らない世界に触れることは充分出来ます。未知の世界を訪ねて予想外の展開にとまどって、読み終わったら世界がすこ〜し広がってる。
〉そういうことがあるはずです。
「興味がある」とは、どういう事を言うのか?を考えると、
知らない事に興味は湧かないと思うんですね。
知っているからこそ、興味が湧く。
宝塚の花組の男役トップが退団し、新しい人がトップになったとしても、
私は今までのトップが誰で、どんな役者で、
どんな演技をしてきたかも知らないし、
新しいトップがそれまでどんな経歴を持って、
トップに相応しい実力を培ってきたかも知らないから、
そんな事に興味が持てないわけです。
そして、私は宝塚を頻繁に見て楽しむ「場」に居ないから、
杏樹さんに「宝塚」独自の魅力をいくら説明してもらっても、
解らない訳です。
(今、唐突に「場」という言葉を使いましたが、これの意味については、
たこ焼さんへのレス「言語の最小単位は事の場」を覗いていただければ、
幸いです。私の言う「知っている」とは、その「場」にいると言う事です。)
逆に、杏樹さんに、商法で会社の自己株式の保有が認められた事の意味を
いくら私が説明しても、興味も湧かないし、理解も出来ないと思うんです。
(いや、実は、そういう事に興味があって、よくご存知なのかも知れませんが)
文化人類学者にマリノフスキーと言う人がいます。
この人の研究に、ニュー・ギニアからソロモン諸島にかけて行われていた
「クラ」と言う交易の研究があります。
このクラとは、Aという島の民が、Bという島に行き、そこに財貨を贈与し、
Bの島民は、Cの島に行き、財貨を贈与し、CはDへ、DはAへ
という具合の「贈与」の円環の風習なんですが、
マリノフスキーは、この交易の島々に与える機能をせっせと研究しているんです。
マリノフスキーの「興味」によって、描き出される「クラ」の機能は、
なるほどそういうものか、と確かに納得できるんです。
でも、それは私も属している「西欧化社会」
(で、良いですか?なんなら、南北問題って言葉もありますから、
北側社会でも良いです)
の「社会的機能」の概念を、ニュー・ギニアの人々の風習に持ち込んで、
結局の所、「私たちの社会で言うところの、これこれの機能をこのクラによって、
実現しているのだ」って言う研究なんです。
で、その解説というか、研究の主張は解る。
解らないのは、ニュー・ギニアの人達が、私たちの社会で行っている
「これこれの機能」を何故、そんな不合理(と、こちら側からだと見える)な
「クラ」によって実現しているのか?って事なんです。
ニュー・ギニアの人々自身は決して不合理な事をしてるとは思っていないと
思うんです。
必然であり、合理的な行為として「クラ」をやっている。
そうでなければ、広い範囲に於いて、永続的に続くわけ無いですから。
その彼らの合理性、必然性が、私にはどうしても理解不能なんです。
つまり、マリノフスキーは、西欧側の既に知っている事の興味から
ニュー・ギニアを研究し、既に知っている「社会的機能」によって、
クラを描いたに過ぎない訳で、「新しいことを知った」訳ではないと
思うんです。
繁華街を撮った一枚の風景写真があるとします。
ゴチャゴチャとした街並み、雑多な看板、大勢の雑踏・・・
そんなものが写っています。
(道頓堀界隈を広角レンズで撮った感じです。)
その写真を何回か目にしたことがある。
でも、大体場所はどこかぐらいの印象しか受けない。
特に芸術的と言う訳でもないし、歴史的価値があるとも思えない。
それが、
「その写真には、郷ひろみと松田聖子の密会が写っているよ
ホラ、その喫茶店の中」
と言われると、はじめて、確かに片隅に写っている喫茶店の窓の中に
微笑みあう郷ひろみと松田聖子が見えてきたりする訳です。
この場合、それを漠然と見ていた時に、
その写真が見えていなかった、つまり知らなかった訳ではないと思うんです。
その喫茶店だって見えていたし、その中に客が居るのも見えていた。
私たちが「本を読んで知る」事が出来ると言うのは、
こういう事じゃないのかって思うんです。
もう一つ。
沢山の人が街中で居る絵があります。
小さく人がいっぱい書いてある。
それを眺めている。
でも、何も見えてこない。
ところが、その絵が何年も前に流行った「ウォーリーを探せ」の一枚だと
教えられると、確かにウォーリーが書いてあるんです。
こういう「密会写真だよ」とか「これはウォーリーを探せの絵だよ」と言う
指示と言うか、それを受けてからの対象への視線を
エドムント・フッサールと言う哲学者は「意識の指向性」と言った訳なんですが、
(単に「志向性」と訳される場合もあります。)
私たちが「新しい事を知る」と言った時に、実は、
それは新しい世界が目の前に現れると言う事ではなく、
今まで目の前に在った世界に新たな志向性が与えられるに過ぎないのではないか?
って思うんです。
(「に過ぎない」と言う言い方は、新たな志向性の獲得への冒涜ですね。)
つまり、私たちは自分が知っている事を、全部意識して知っている訳ではないし、
(志向性を持っている訳ではない)
例え、意識して知ろうとしても
(志向性を持ったとしても)
今、目の前にある「写真」や「絵」以外のものが見える訳ではない、
(自分の存在しない「場」の知らない事を知る事は出来ない)
って思うのです。
〉私はどんでん返しや予想外の展開が好きですから、「予測が立つ」といってしまうと、予測の立つ世界はおもしろくない、と思ってしまいます。知っていることを再確認するよりも、新しいことを知りたいと思います。道化師さんが例に出している「恋愛小説」みたいなのは読みたいという気がしませんねえ。そんな予測できる世界は私にとっては面白みを感じません。
言ってみればどんでん返しや、予想外の展開は、
知っているけれど意識していない(志向性を持っていない)世界って事になると
思います。
だから、私だって、既に志向性のある知識の上塗りばかりではつまらないと
思っています。
私の言う予測出来る世界とは、志向性を与えられる事によって、
知っている事として浮かび上がってくる世界とでも言ったらよいでしょうか。
ただし、知っているけれど意識していない世界(志向性を持っていない世界)は、
たこ焼さんの言う「無意識」とは異なります。
たこ焼さんの言う「無意識」は、志向性を与えても、見えては来ない世界ですから。
〉「新しいこと」「予想外の展開」と言ってもそれも「予測できる世界」のうちだと言われてしまうかもしれませんが。でも予測の中で読んでるとか、知ってることしか読めない、って言ってしまうとなんだか世界がせま〜く感じてしまいます。
〉少なくとも私は本を読むのは未知の世界を訪ねるためと言っていいでしょう。
〉道化師さんは「知っていることを読む」。でも「未知の世界を求める」人もいる。
だから、何の「場」の共有も無い「未知の世界」は、
いくら興味を持って知ろうとしても、知ることは出来ないと言う事です。
確かにこう言うと、「世界がせまーく」感じてしまいますが、
逆に言うと、世界の近代化の歴史は、西欧社会の「場」に、
それ以外の社会を巻き込むと言う流れで来ていると思うのです。
それは西欧社会の「場」としての世界を広げる事ではなく、
違う「場」を持つ異なる社会を西欧社会の「場」の言葉によって、
再定義し直し、それを異なる「場」に参加していた人達に強制し、
異なる「場」を消滅させてきた、
世界を広げず、外の世界を無くしてきた歴史だと思うのです。
特定の個人は、特定の「場」にしか存在する事は出来ないのですから、
その特定の個人が「世界がせまーく」感じた発想が、
西欧社会の異なる社会の粉砕になってのでは?と思うのです。
…ということでどうですか?
ではであ。
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