Re: 言葉の最小単位は「物語」

[掲示板: 〈過去ログ〉SSS タドキストの広場 -- 最新メッセージID: 14976 // 時刻: 2024/11/1(19:17)]

管理用 HELP LOGIN    :    :


上へ上へ | 前のメッセージへ前のメッセージへ | 次のメッセージへ次のメッセージへ | ここから後の返答を全表示ここから後の返答を全表示 | 返答を書き込む返答を書き込む | 訂正する訂正する | 削除する削除する

10889. Re: 言葉の最小単位は「物語」

お名前: たこ焼
投稿日: 2004/3/13(03:38)

------------------------------

〉たこ焼さん、はじめまして、fiddleと申します。

はじめまして、fiddleさん。たこ焼です。

〉いつもたこ焼きさんの話芸、楽しませていただくとともに、
〉中身の深さに感動しておりました。

あっ、ありがとうございます。
fiddleさんといい、ペギーさんといい、なんともお優しい。
「芸」と呼べるほども物ではないことは、たこ焼も十分自覚しているのですが、
そのように言っていただけると、やはりとても嬉しいです。

〉英語の話ではありませんが、何故本が読めるのか、私も前からちょっと考えていました。

〉我が家には娘が二人います。今までの生活のなかで観察したところ、
〉A(高2)のほうは物語に共感する能力は高いが、中に出てくる言葉を暗記する能力が低く、
〉B(中1)のほうは中に出てくる言葉を暗記する能力は高いが、物語に共感する能力は低い、
〉という傾向があるのに気が付きました。
〉例えば歴史の教科書を読んでも、そこにAは物語を感じるのに、
〉Bにとっては憶えなければならない事実の羅列でしかなかったりするのです。
〉成績がいいのは、もちろんBのほうです。
〉ほとんどの学校のテストというのは暗記力を試すものですから。
〉でも、本を楽しむ力というのは圧倒的にAのほうが持っているように見えます。

「物語に共感する能力」と「言葉を暗記する能力」とが、
互いに排斥しているということでしょうか?

う〜ん、もしかすると・・・。
「暗記」の方法なのですが、大きく分けて2つの種類があると思います。
ひとつは、一問一答式に覚える方法で、
もうひとつは、連想で芋づる式に覚える方法です。
もしかすると、Bさんは、前者の方法で暗記されているのではないでしょうか?
たこ焼は受験期に両方の経験があります。
現役生の頃には前者、浪人生の頃には後者の方法で暗記してました。
今から思うに、一問一答式の方法は、
連想をぶつぶつと積極的に切る方法だと思います。
つまり、ごく自然に湧いてくる連想を邪魔者扱いする方法なので、
この方法に慣れると、連想および連想への感受性が弱まるのではないでしょうか?
一方、芋づる式の方法は、連想自体を積極的に使うので、
連想が強化・増殖されるのでしょうね。

〉そこで、私は本を読む力というのは、「共感能力」とか
〉「物語の構造(文法でいう文の構造ではなく)をつかみ取る力」ではないかと
〉推測していたのです。

「物語の構造」ですか!
なるほどfiddleさんって、『神話の力』に興味を示されるようなお人だな、
と思いましたよ。(^^)

〉Pという現象とQという現象が平面的に並んでいるのではなく、
〉立体的で、互いに関係しあっているのを直観できる力、
〉とでもいいましょうか。

なるほど。
この場合、たこ焼の「連想力」という微視的な表現よりも、
道化師さんが仰っている「予測能力」という巨視的な表現の方が、
はまりがいいかもしれませんね。

〉(すみません、なんだかうまく表現できません。
〉口から先に生まれたようなだんなと口論すると、
〉「今の話を論理的に言ってみろ」
〉と言われていつも泣く泣く??引き下がっている、口下手の私です)

たこ焼は、一般に、「論理」よりも「イメージ」の方に強く惹かれます。
考えるときにも、「論理」よりは、もっぱら「イメージ」の方を使います。
無理して論理的に表現しようなどとしなくてもいいのではないでしょうか?
優れたイメージには、論理が後からついてくるように感じるのです。
太い幹の論理さえ間違えなければ、OK!OK!
もちろん、枝葉末節の論理は穴だらけですが、
そんなところの論理なんてゴミにしか見えません。(ちょっと言い過ぎかなー)(^^)

〉酒井先生のおっしゃる「物語の力」というのは、
〉言葉が、単語のみ、一文のみではなく、集合体となったときに持つ力と、
〉人間が物語を読むときにそこから感じ取る力と、
〉両方合わせもっているのではないかと思います。

なるほど。
前者の力が、後者の力の成長を促すのでしょうね。
つまり、
「物語」の中に含まれる数々の連想が、
人間の脳の中に新たに連想をどんどんと作り上げるのです。
そして、頭の中にある連想の豊かさは、
「物語」への感受性を決めているように思います。

〉〉言葉の最小単位ですので、「物語」を小さく切り刻んだ要素、
〉〉例えば、単語、孤立した文などはもはや言葉ではありません。
〉〉従って、これらをいくらインプットしても、脳の言語野は
〉〉それらを言葉としてなかなか認識しないのです。

〉詩という形式は、この限界のところでの文学表現といえませんか?
〉だからこそ、作り手にも読み手にも
〉より大きなイマジネーションが要求されるような気がします。

すっ、すっ、すっ、素晴らしいっ!!!
確かにそうですね。まさに、「限界」のところだと思います。
「詩」に関して、たこ焼は、何も考えたことがなかったのですが、
fiddleさんのこの指摘には、えらく興奮しましたー。
うふ、思わずhug、hugしちゃいたいぐらいの大歓喜です。(^^)

〉〉ところがSSS的多読だと、「物語」そのものをインプットするので、
〉〉脳の言語野はちゃんと言葉として認識して、
〉〉言語野の成長が促進されるのではないでしょうか?

〉〉いや、もう少し精密に表現すると、
〉〉「物語」のイメージが漂っている状態なら、
〉〉取り出した個々の語や文も、言葉として感じられるのです。
〉〉多読で覚えた語や表現が、生き生きとしているのは
〉〉そのような理由からではないでしょうか?

〉そうですそうです。
〉それこそ、私が多読をやろうと思った理由です。
〉現実は、まだまだ頭の中で日本語と英語とがせめぎあって
〉英語そのものを受け入れることの難しさを実感してしまうときが
〉多いのですが…
〉もっとたくさん読まなくちゃ!

ある表現を「英語そのもの」として受け取ることができるのは、
その表現を含む幾多の「物語」を読んだことがあるから・・・
いや、物語を「経験」したことがあるから・・・といった方がベターかな。
「読む」と「経験」とは、連想の形成の点から見れば、
脳にとっては等価なのでしょうね。
うんうん、なるほど。
経験と等価になるような読み方が、SSS式の多読である
ということですね。

〉まとまりがなくて申し訳ありませんが
〉これにて失礼いたします。

ありがとうございます。

ではでは〜♪

▲返答元

▼返答


Maintenance: SSS 事務局
KINOBOARDS/1.0 R7.3: Copyright © 1995-2000 NAKAMURA, Hiroshi.